冨永 妙子先輩 文学部国文学科 昭和二十四年卒業

  第四回目のリレーインタビューは、四日市地区の冨永妙子様です。渡辺支部長と、編集担当の鈴鹿・亀山地区委員、杉村・杉野の三人でご自宅へ伺いました。ご自宅は、最覚寺という浄土真宗本願寺派の寺院で、大きな鐘楼や立派な本堂に圧倒されました。 

  お伺いする直前まで、境内の草取りをされていたとおっしゃり、とてもお元気な御様子でした。長年、お寺を維持しつつ高校の教諭を務められ、文化教室の講師なども続けてこられたそうです。

 冨永様は、昭和二十年に奈良女高師に入学されました。子どもの頃から本を読むことが好きで、国語が良くできたので、担任の先生から進学を勧められました。出身は岐阜県で、「高等師範へ行けば縁談が無くなる」などと言われるなか、また女子が進学する時代ではなかったのですが、ご家族の温かな理解と支援を受け、空襲のある東京は避け、奈良へと進学の夢が叶ったそうです。けれども、大戦中で食べ物もなく、学徒動員で勉強もできない学生生活でした。寄宿舎にいても配給もなく、浄瑠璃寺近くの農家まで芋や大根を買い出しに行かれたとのことです。 

8月に終戦となり、「自由」が輝いていたわずかな時期に、学園祭もない時代でしたが、4年生を送る会で文科の出し物としてマイヤー=フェルスターの戯曲『アルト・ハイデルベルク』を演じられたそうです。ドイツ語の得意な人が台詞を訳し、物のない時でしたが、家政科の人が衣装を手作りしてくださり、


上演が叶ったそうです。この時、冨永様は主役のカール・ハインリッヒを演じられました。恋人のケーティを「もっときちんと抱きなさい」などと言われつつ、皆で考えなら劇を作り上げ、「アルト・ハイデルベルク栄えある麗しき我が町・・・」と、今でも台詞を覚えていらっしゃいました。このモダンな劇は本館講堂で上演され、学長や先生方も観に来られて、大変好評だったそうです。華やかなドレスを身にまとい、まさに新しい時代の始まりとなったのでしょう。写真中央の男装の麗人が、冨永様です。


 卒業後は、開校二年目の暁学園の国語教師として教職に就かれました。寄宿舎も用意され、土曜日には名古屋大学の聴講生として通って良いという好条件だったそうですここで、冨永様は、同僚の男性の教師に一目惚れし、大恋愛の末結婚されたとのことです。戦前は女学生は汽車に乗る時も男性とは違う車両に乗っていたような時代だった

ため、男性との出会いは全くありませんでした。「男の人はみんな素敵に見えて、ひょいと見て、ひょいと好きになってしまった」と、笑いながら話され、純朴で一途な乙女の一面を拝見させていただきました。そのお相手が、最覚寺の御住職でしたが、その後四十五歳で急逝され、冨永様がお子様二人を抱え、お寺を継がざるを得ない状況になったそうです。

 女住職を務めつつ、公立高校の教諭として、白子高校、四日市南高校、桑名高校で教鞭を執り、市の公民館では古典講座を教える文化活動も始められました。当時桑名高校で生徒として、冨永様の授業を受けられた佐保会員の話では、「先生の授業は大変厳しく、初めは怖かったけれど、宿題を必ず毎時間チェックし、生徒のために本気で怒ってくださいました。そんな先生の姿勢に憧れ、奈良女子大学を志望するようになりました。先生の夏休みの補講は、大人気で一番大きな教室に入りきれないほど熱気満々の授業でした。」と語ってみえます。

 その話の通り、生徒の頭を堅い表紙の出席簿で叩きまくったと笑っていらっしゃいましたが、当時の生徒達は今でも頻繁に同窓会を開き、招いてくれるとのことです。「人間誰しも過ちはあるし、できないこともある。できなかったら、できなかったと言いなさい。それを素直に認められない者は、人間的に認めることはできない。」との信念の下、振られた愛の鞭は、心にまでしっかり届いていたのではないでしょうか。

 古典講座は、退職されてから現在までも続けていらっしゃいます。市からの教養講座の依頼を受け、和泉式部日記、源氏物語、万葉集、歎異抄などの古典を題材に講義をしてこられました。冨永様の講座は


大変人気があり、特に万葉集の講座は、受講生が百人を超えることもあったそうです。講義だけでなく、古典を訪ねて京都・奈良へと旅行を企画されたりもし、受講生たちと楽しく過ごされたとのことです。当時は、若い頃に勉強したくてもできなかった人がたくさんいて、文化教室は大盛況。勉強熱心で宿題はきちんとやり、大変真剣に受講してくれたと伺いました。「最近、講義の準備をするのもしんどくなり、受講生の期待に応えられる内容にできる気がしなくて、気ばかり焦るので、九十歳を機にやめようと思う。」と、まだまだお元気なのに、もったいない決断をされていらっしゃいます。

「社会と繋がろうとする努力、人と繋がっていたいという望み、繋がっている人を助けたいという気持ちを持ち続けることが、生きている証であり、気持ちの上での若さを保つことができる。我から求めていく熱意がなければいけない。行動すること、行動しようとする気持ちが若さだから。」と、今も外へと自らを発信し、生き生きとした人生を送られているお姿に心を打たれました。

 自分が思っている以上に評価されると嬉しいけれど、同時にとても疚しいと思う。」と自己批判をされていて、とても謙虚なお姿を拝見させていただきました。そして、「あなた達からもうちょっと頑張れって言われた気がする。」とおっしゃり、最後に、奈良の下級生が来てくれると喜ぶからと、仏壇のご主人様に報告されていました幼い頃から現在まで、教育一筋に走り続けてこられた大先輩ですが、誠実で驕ることのない慎ましいお姿に敬服しました。また、戦中からの多難な時代を過ごされた先生の大きさ、常に自己批判を忘れないお姿に、深い感銘を受けました。予定の時間が来ましたので、渡辺支部長から、「卒寿、白寿のお祝いにも来ますのでお元気にご活躍ください。」とお願いしてお暇してきました。



左の写真は、本学記念館二階講堂の正面にある「奉安所」です。戦前の学校では、国家祝祭日に、「御真影」(天皇皇后の写真)に最敬礼し、『教育勅語』を奉読する儀式を行うことを求められました。開校時奈良女子高等師範学校に下賜された御真影と教育勅語は、普段は正門脇の「奉安殿」に保管され、儀式の際には、この奉安所に御真影を掲げ、その前で校長が教育勅語を奉読したそうです。

戦後、扉を開けることはなかったのですが、今年は扉の内部が一般に公開されました。日本の教育史上、歴史的遺品としてたいへん貴重なものだそうです


 最後までお読みくださり、どうもありがとうございました。 次号もお楽しみに。