扉を開けて1 「奈良少年刑務所見学」

理化 昭和五十四年卒 尾藤 尚子 

 関西在住の同級生から、九月十日・十一日に、奈良少年刑務所で、「奈良矯正展二〇一六」があり、施設見学もできるので、行かないかとの誘いを受けました。

  なんでも、奈良少年刑務所は、今年度末で廃庁(閉鎖)になり、最後の矯正展になるとのことでした。また、ホームページを見たら、レンガ造りの立派な建物であり、是非見てみたい、また、施設見学までできるならばなおさらのことと思い、出かけてきました。

 実は、私は四年間、奈良に過ごしていながら、奈良少年刑務所の存在を知らなかったのです。( 後で、ギターマンドリンクラブに所属していた同級生からは、慰問したことがあると、聞きました。)

 私が小学生の時、某刑務所の前の家に住んでいる同級生がいましたが、その刑務所は、コンクリート塀でした。それで、私の中では、刑務所は、コンクリート塀に囲まれた建物だ、というイメージがあったのです。

 けれども、奈良少年刑務所の前に立った時の第一印象は、「なんて立派な建物なのだろう」ということでした。建物だけではなく、塀もすべてレンガ造りなのです。まさに、圧巻。刑務所のイメージが一変しました。実は、このレンガ、すべて建築当時の受刑者の手造りなのだそうです。 

矯正展ということで、当日は、全国の刑務所作業品の展示即売や、パネル展示、餅つき等のさまざまなイベントがありました。

また、九月十日は、杉良太郎さんのテープカットもありました。テープカット後の挨拶で、杉良太郎さんが、十五歳から七十二歳の現在に至るまで、毎年刑務所を慰問されていることを知りました。 

見学できる施設は限定されており、受刑者と顔を合わせるエリアはありませんでしたが、更生のために、職業訓練を行う多くの作業場(木工・金属・電気・理容等)を見学することができました。但し、施設内は、撮影禁止となっていました。

 また、寮美千子さんの編集された詩集「空が青いから白をえらんだのです」が販売されていたので、購入しました。

  この詩集に収められた五十七編の詩には、それぞれの受刑者の更生への想いが詰まっていて、涙なしでは読めませんでした。

  寮美千子さんの解説で、心に響いた言葉を、少し抜粋させていただきます。

 不幸な犯罪をおこしてしまった原因は、その子自身の性質だけではなく、家庭や学校の環境、社会環境などが、複雑に絡まっています。彼らの更生を成就させるには、二つの条件がある。一つは、彼ら自身が変わること。そして、元受刑者を温かく受け容れてくれる社会があることだ。

 私も、本当にそのとおりだと感じました。

 この詩集、文庫本で、ページ数もそれほど多くありませんので、関心のある方は、是非お読みいただけたら、と思います。

 友人に誘われるまま、奈良少年刑務所の建物を見てみたい、という思いで出かけただけなのに、いろいろな意味で、とても社会勉強になった一日でした。

 奈良少年刑務所を見学して一週間ほどして、NHKで「ドキュメント七十二時間」という、和歌山女子刑務所の取材番組がありました。                     

 ご覧になった方もみえるかもしれませんが、私自身は、刑務所見学をしたばかりだったので、より理解が深まったように感じているところです。 


扉を開けて2 「100km24時間ウオークに参加して」

        理修化 昭和四十八卒 延与恭子

 テレビで24時間で100㎞を走るという番組があると、24時間あれば走らなくても歩いて行けるのではないかという疑問がありました。

なので2015年ランニング仲間(同年齢の女性)から24100㎞ウオークを誘われた時OKしてしまいました。私のほうが半年早く生まれているので、鈴鹿ランニングクラブでは、私が女性では最年長です。今年68歳になりました。24h歩き続けるには、トイレも56回は行かなければならないし、食事も4回位とるとすると時速5㎞位で歩き続けなければなりません。多分後半は時速4㎞も難しくなるように思うのでもっと早く歩かなければならないかもしれません。最初からそれだけ飛ばすと、後がよけい怖いような気もします。

 何事もやってみなければわからないと、5月の連休に岡山に出かけました。ウオーキングの大会は、高齢者が多いのですが、岡山の後楽園を午前10時スタートの100㎞ウオークは若い参加者が多く、またサポートをしてくれるボランティアの人達も若い人が多く感激しました。岡山政経塾が始めて、最近一般の人々の参加も募っているとのことでした。厚かましくスタート時、前のほうに並んだためにスタートと同時にドンドン追い越され、それでも必死に歩いてゆくと10㎞で1時間40分程でした。時速6㎞で歩いたことになります。

 10㎞で早くも腰かけて靴下を脱いで足を眺めている男性が34人いました。今から水ぶくれができたら先が思いやられます。その人達を追い抜いたことになるけれど、他はほとんど追い越されるばかりでした。自動車のこない歩きやすい河川敷から一般道にでると、車を用心しなくてはならなくなり、さすがにカーチェイスのような抜きつ抜かれつはおさまりました。時間節約のため歩きながら食べようとおにぎりを買ってあったのですが、皆さん座ってお行儀良く食べているので、私もそれに倣いました。お天気が良く30度近くあり、脱水症ぎみで唾液が少ないのか、お茶を飲んでもおにぎりがなかなか喉を通らず困りました。

 あまりにもお天気が良かったので、サポートで曲がり角に立ってくれている青年の顔が夕方には日に焼けて真っ赤。「ご苦労様」と声をかけると「昼間から酒を飲んでいるのかと言われています」との返事。笑いが疲れを吹き飛ばしてくれました。

夜のほうが涼しくて歩くのが楽でした。炊き出しのおうどんは喉越しがよく助かりました。ゆで卵の殻や箸袋にも励ましの言葉が書かれていて癒されました。真夜中の山道は車も少なくなりほんとうに真っ暗な所もありました。昼間は集団だった人の群れも伸びて、友達とも別行動になり、前後を行く人のライトがかすかに見えたり見えなかったりと心細い思いもしました。夜明けが待ち遠しかったです。

 感謝した太陽も照りつけると暑く、早くゴールしなければと焦りましたが、最後の4キロは本当に長かった。でも22時間42分でゴールすることができました。

 この年で挑戦できるものがあり、またそれを達成できたことにとても喜びを感じました。

 それで今年も申し込んだのですが、友達は腰に痛みがあるということで急遽参加を取りやめました。私も春休みに出かけた台湾一周のウオーキングで膝を痛めてしまい、治って10日程という時期でしたので行こうか止めておこうか迷いました。痛くなった時点で止めればいいと、ホテルを予約していたこともあり出かけてゆきました。

 今年のウオークも午前10時スタート。最初はうす曇りで去年より楽でしたが、午後2時頃から雨が降り出し1時間もすると風も強くなり、横殴りの雨でポンチョを着ていてもかなり濡れてしまいました。夜になると寒く、靴もびしょ濡れで最悪。足にワセリンを塗り、靴下を何回か変えましたが、水たまりに足を突っ込むと一巻の終わり。

夜は見えにくく、また雨が降り続き水はけの悪いところでは一面水浸しで、避けようがなく、もうやけくそ。だんだん感覚が鈍くなってくる。膝をかばってスピードを落とした分と、止まると寒いので、食事は5分以上かけないように心掛け、今年は23時間32分でやっとゴールしました。去年と少しコースが異なり山のアップダウンが増え膝が心配でしたが、痛みが出ずラッキーでした。痛みが出れば止めればいいという呑気な考え方は、車が入れない山道もあったので甘いということが分かりました。去年より遅いものの,膝が万全ではない中での完歩だったので嬉しかったです。今のところ、来年も挑戦したいと思っています。 

 

水彩画(筍)

家被 S四三卒 渡辺澄子



扉を開けて3「初めての参禅報告と澤木老師のこと」

 家食 昭和四十年卒 成田美代 

私にとって、今年のテーマ「扉を開けて」にぴったりだなと初参禅の体験を報告します。

 七十歳を既に越した私が人生で初めて禅(座禅会)に参加しました。平成二十八年八月二十日から二十二日まで二泊三日、信州塩尻市の郊外にある無量寺(曹洞宗:青山俊董前住職(東堂))という尼寺で、今年は第五十回という記念すべき集いに参加してきました。ちなみに第一回目は昭和四十年だったそうです。

参加者は全国から集まった百四十八名(男三十一名、女百十七名)、宿泊する以外に日帰り参加者十八名、またお世話いただく尼僧(数名の男衆含む)方三十五名が総勢でした。宿泊する参加者を七班に分け、座禅・講話・食事などの一斉活動以外の、掃除(作務)、食事の配膳、食器洗いなどを班毎に順番に割り振られて整然と進められました。なお、食事の準備は典座担当の尼僧さん方が準備してくださいました。

参禅のきっかけは、この二、三年の間に友人三名が入れ替わり立ち替わり座禅会に参加された話を聞いていて、私も是非にと思いながら果たせず、今年こそはと、やっと実現できたものです。(申し込みが遅いと定員に達していて受け付けてもらえないときもあったそうです。)

 ではなぜ座禅なのか、と問われれば然したる深い動機があったとは言い難いかもしれません。ただ、先に書いた私の友人たちに無量寺の禅の集いを紹介された方が私も存じ上げている方で、この方が四十歳頃三重大学に赴任されるきっかけが、「澤木興道老師の出身地が津市であったので縁を感じて着任した」との話をお聞きし、一人の人生に影響を与えるほどの澤木興道老師とはどのような方なのか、その信条は何か、その方が座禅をどう教えているのかと興味を持ちました。その先生は三重に来られる前(東京の学生時代)から参禅されておられたとのことです。なお、この先生は私たち佐保会三重県支部が社会貢献として寄付させていただいている「社会福祉法人レンゲの里」の設立以来十年余、理事長をお務めになられて(最近理事に退かれました。)いました。

  私は最近まで澤木老師のことは全く知識がありませんでしたが、少し調べてみましたところ、なんと波乱に富んだ人生を送っておられたことでしょう。澤木老師は明治十三年津市新東町で多田家四男として誕生されましたが、数え年五歳で母を、八歳で父を亡くされ、叔父に引き取られたものの半年後に急逝。縁あって一身田町の澤木家の養子にもらわれました。ただ養父は表向きは提灯屋ということになっているが、実のところ博打打ちであり、養母も遊び人であったため、小さいときから賭博場のぼた餅売りをしたり、寄席の下足番をしたりと苦労を重ね、幼くして社会の裏側を数々体験しました。一方で近所の遊郭で遊女を買った男が急死して、叔父の死は目の当たりにされていて、如何に鈍い自分でも芯から無情を感じた、この広い世の中に何一つ当てになるものはないことを実感されたそうです。更に震えている養父に代わって夜中三里歩いて、ヤクザ七十人の抗争仲裁の連絡役を果たし、今で言う幼児虐待常習の養父に一目置かれる様になる程の度胸も持ち合わせていたそうです。こんなすさんだ最低の生活環境の中、隣の家に移り住んだ森田家は落ちぶれてここに越してきたが清らかな生活をされており、この一家に惹かれていつも出入りして、そのお父さんから「十八史略」「大学」「中庸」「文選」などを教えられ、「世の中には金や名誉よりも大切なものがあること」を知り、澤木老師曰く「これが以後の果実を形成してゆく芯となった」そうです。小学校卒業(入学が遅れ十三歳)後、提灯屋に精を出して遊び人の養父母を養っていましたが、徐々に自分の人生を考えるようになり、更に深刻に悩むようになり、ついに大阪に家出をします。いったん連れ戻されましたが、十七歳の時改めて生米二升、小田原提灯一個、わずかの金子を持って、生米を噛みつつ永平寺まで四日かけて歩いて行きました。もちろん初めは断られましたが二昼夜飲まず食わずで頼み続け、ついに作事部屋の男衆(おとこし)として置いてもらえることになり、ここから澤木老師の求道の生活が始まります。この求道生活というのも決して平坦ではなく、兎に角自分の寺を持たない(住居を持たない)、妻帯しないと言う信念を持ち続けられ、五十五歳(昭和十年)の時請われに請われて駒澤大学の教授に就任される以外は、すべて巡錫・漂泊で座禅を貫かれました。最後は足が弱られ京都安泰寺に留錫され、昭和四十年八十五歳で遷化されました。

 澤木老師が座禅を志したのは、永平寺から修行のために移動した天草の宗心寺に置いてもらっていた時、休みがもらえて「遊んでこい」と言われたのに、遊ぶのがもったいなくて座禅をしていたところ、いつも小馬鹿にする手伝いの老婆が、座禅姿の小僧に対し、仏様を拝むよりも何百層倍もていねいに拝んだことから、座禅の持つ力の不思議さを知ったからだそうです。他にも福井の龍雲寺でも何度かよく似た体験をし、なぜかは分からないものの座禅そのものに尊さ、荘厳さが潜むことを確信され、またご自身も永平寺に入った頃男衆として使いっぱしりの最中ちょこちょこ走っていたところ、四,五人が座禅している姿が衝立に映っているのを見て、とたんに電撃を食らったように胸がドキンとして足が震い、抜き足差し足で歩いたという経験もお持ちで、これらから座禅の重要さを身をもって教えるために一生座禅に明け暮れ、その結果それまで禅と言えば臨済宗の公案禅ばかりのところ、一途に道元禅師の祇管打座を挙揚され、ここまで高められたことは日本仏教史上特筆すべき事だそうです。座禅の神様と呼ばれるようになった所以でしょう。

 これらが私も座禅を体験したいと思わせたのでしょうか。

 今回の二泊三日のプログラムの中で、座禅は七回組まれています。(座禅は一回大体四十分位。四十分を越える場合は「経行(きんひん)」と言って一度立ち上がって堂内を歩行または用を足します。今回のプログラムでは毎回大体四十分なので、経行は無し。)座禅以外のプログラムでは毎年外部から呼んだ講師(今年はドイツ人僧侶ネルケ無方安泰寺住職)による講話が四回(一回九十分)、それに今年は五十回記念ということで、祝賀演奏会(フルート・オカリナ奏者浅川由美)が組み込まれていました。

 さて、当日いただいた「座禅作法・食事作法」と言う冊子によれば、禅とは梵語(インド古代語)の「ゼンナ」に、同じ音を表す「禅」と言う漢字をあてたもので、意味は「定」「静慮」「思惟修」などと訳されているとのこと、ものごとの真実の姿やあり方を見極めて正しく対応する心を整えるということだそうです。人は常に一瞬一瞬心が動いていますが、それらをその都度追いかけるのではなく、そのような心の動きに執れないこと、流れのままに任せることが大切で、それ(禅)を行ずる(行動すること・形に表すこと)もっとも基本的な形が「端座」することで、ここに座禅が強調されるということだそうです。

  冊子による座禅の方法を箇条書きします。

 ①入堂  

 ゆったりとした服装で座禅堂(無量寺では本堂)に入り(入り方にも原則あり。省略)

 ②座り方

 座蒲(ざぶ・座禅用の黒い丸い蒲団)を持ってきて、座位(半畳ほどの座禅をする各自の場所)の両隣・前後の方に無言の挨拶(門訊もんじん)を行い、足を組んで座ります。仏様のように結跏趺坐または半跏趺坐で、両膝とおしりで上体を支えます。私は片膝が痛いということもあって半跏趺坐で臨みました。またご高齢で座ることができない方々は椅子で座禅されます。自分に適した方法でよいそうです。

③手の組み合わせ方

 手も仏様のように法界定印(ほっかいじょういん)に合わせます。

目線の位置と姿勢

 形が整ったら背筋を伸ばして目は閉じないで一mほど先(四十五度の)に目をおとします。上体を左右揺振して落ち着かせます。座禅の初めと終了は堂内の小鐘が鳴らされ合図が出されます。

⑤警策(きょうさく)について

 座禅中に眠くなったり落ち着けなくなったら、警策を受けることができます。自ら求める場合と励ましのために入れられる場合があります。

⑤座禅の終了

 合掌低頭し、左右揺振して体をほぐしながら足を解き、ゆっくり立ち上がります。左右前後への問訊を終えたら退堂します。 

 それにつけても、百人からの人間がそう広くもない寺の本堂中心に空いたスペースをフル活用して、講座や食事の時は机を出し、座禅の時は片づけて座蒲を出し、夜は蒲団を敷いて寝るなどの生活をするわけですが、流れに乗っていれば多小の不便さはあっても粛々と過ぎてゆきました。澤木老師の言葉の中に、仏法僧の三宝どれが欠けてもならない。その中で僧宝は僧伽ということで、理想的な共同生活のことだそうです。そしてこの共同生活は仏法の具体的な活動であって、この共同生活を圓成させること以上に浄らかな悦びは他にはなく、この浄らかな競争のない悦びの中には、自分の権利だとかとかく生活をぎこちなくするものは存在しない、と仰っています。まさに今回の二泊三日の禅の集いは、この共同生活を体現したものと感じました。

 この二泊三日の座禅を体験して、参禅期間中、初めての事ばかりですので、多少の緊張感はありましたが、それ以外の感情は無く、ただ時間が過ぎてゆくだけでした。早朝(朝五時)の暁天(朝の座禅会のこと)の時はその最中に鐘の音がゴーンと聞こえてきました。また小鳥のさえずりも聞こえてきて、朝の静寂の中、心洗われる心地でした。これが禅なのだろうか、座禅の在り方なのだろうか、だとすれば私は毎日何で「忙しい、忙しい」と言っているのかな、私の日常は全く禅の精神に逆行しているな、と自問自答しています。澤木老師は、道のために生命を全うするべきで、道のために食えなければ飢え死にするまで、と十八歳頃には一生の方針を決められたそうです。道というのは仏道すなわち修行のことと理解しますが、曹洞宗の高祖道元禅師はただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張されていますが、今回の参禅で自分の生活を顧みることができたことが収穫だったと思っています。そして時には日常の喧噪を離れ、静かに時の過ぎゆくままに身を委ねることは心身のリフレッシュにもなると思います。次回、ご一緒しませんか。                                          (完)



扉を開けて4

支部総会の会場で、特集のテーマで皆様からメッセージをご寄稿いただきました。御協力いただきました皆様、本当にありがとうございました。紹介させていただきます。(敬称略)

 

神戸 道   文学部国文学科第一部 昭和二五年卒

 六十歳、定年退職したその日にプールの扉を開けた。一年間クロールを習い、習得したら次の課題には進まず、フリーでクロールを泳いだ。一年後には25mコースを20往復、千mを泳ぐまでになった。しかし、現在は歩行練習30分。哀れなものです。

 

小坂 絢子   文学部国語国文学科 昭和三一年卒

 人生には何回か扉を開けて新しい世界に眼を開くことがあると思います。読書や人々との交わりの中で、私にとって幸せな出会いがあって現在の私があると、「扉を開けて」のことばを見て思い出しました。

 

野村 淳乃   家政学部食物学科 昭和三一年卒

 最近は自分でも色々やっていますつもりでしたが、今日の皆様のお話を聞き、もっと力を出して取り組んでいかねばと気持ちを新たにしました。明日からを楽しみにしています。もっともっと前に進みたい気持ちです。

 

水谷 令子   家政学部食物学科 昭和三六年卒

 奈良女子大学を卒業して、豊橋市の短大の教師として職業人となったことです。大学では初めての女性教師であり、研究者としてのスタートが始まったことです。今は退職してのんびりしていますが、現役中は忙しくて忙しくて、休む暇もなく働いたものです。学生時代とは違って、勉強も本格的にはじめ、学会での活躍もスタートし、本格的な職業人人生への「扉を開けた」ということです。

 

北村 真佐子   文学部英文学科 昭和三八年卒

 四十年も住み慣れた我が家を閉じて親の残してくれた隠居の家をリフォームして移ることに決めました。最晩年の住みかえです。扉を閉じて扉を開ける。人生の最終章への移行です。

 いいことがありますように!

 

小玉 多嘉子   文学部史学科 昭和四十年卒

 家の「扉を開けて」外出することの多い毎日です。1019日、20日と佐賀県の吉野ケ里遺跡を訪ねました。地元で吉野ヶ里遺跡を世界遺産に、という運動をしておられる方に案内して頂きました。特に驚いたのは、遺跡公園の周辺に設置されたメガソーラーの一群です。最長2㎞にも及ぶソーラー群の下には、弥生時代の水田跡やその他縄文時代の遺跡などもある所です。設置者は、本来守るべき立場にある県だそうです。反対運動と共に裁判にもなったのですが、聞く耳持たずの有様なようです。世界遺産への道のりはまだまだ遠いようです。関連図書「吉野ヶ里遺跡はこうして残った」山﨑義次著 文芸社刊 700円+税 ご興味のある方は是非お読みください。(ネット書店でお求めできます)

 

上瀬 ますみ   理学部数学科 昭和四五年卒

 自身の大きな扉を開けたのは、還暦を迎えた時でした。開業医である夫を支え、慣れない世界の中無我夢中で二十年ほど経過した頃、突然言いようのない違和感が体中を襲いました。あらゆる治療にも効果無く悲嘆にくれる数年が過ぎた頃、東洋医学に明るい友人の内科医から、恐らくそれは脳のなせる技であろうとの事。これはそれまでの生活の中で背負って来た諸々の心身の重い荷物を降ろし、発想の転換を図れとの天の声であると認識した私は、内に縛られず可能な限り身体を動かそうと思い切って外の世界に飛び出しました。幸い夫の理解と協力を得、今は大好きなフラメンコ、一人でツアーに参加する海外へと遅蒔きながら青春(?)を楽しんでいます。お陰で人的な交流も飛躍的に広がり、仕事は程々にセーブしながらではありますが、充実した日々を感謝しつつ過ごしています。

 

東 博美   理学部生物学科(植物学専攻) 昭和四七年卒

 同居の孫娘は、今年小学校に入学しました。新しい生活が始まり、一気に友達も増えました。これからの彼女の人生には、何度か扉が開かれ、そのたびに大きく世界が広がっていくことでしょう。私もそうでしたし、仕事を辞めるまでは新年度を迎えるたびに、ある種の緊張とともに多くの生徒との新しい出会いがありました。いま、私には華々しく開かれる扉はありません。が、その分これまで見落としてきた小窓をのぞき見つつ、感動する心を大切に日々の生活を生きていきたいと思っています

 

藤山 和子   文学部史学科  昭和四十八年卒

 昨年夫と死別し、ひとり暮らしを始めました。

 前を向いていかねばと思って暮らしています。

 

畑中 善子   家政学部被服学科 昭和五三年卒

 本日講演会で、Dr上瀬のお話をお聞きして、少し誇らしい気持ちになりました。父が生前に話していたことや、本や資料としてもらったコピーに載っていた内容が、多く話されていたのです。父は農業が専門でしたから、医食農同源∨と言っていました食を作るのは農ですから・・・。

 当時は少しうっとうしい老人の話として聞き流していましたが、過去への扉を開けて、父の後ろ姿に思いをはせた午後でした。

 

尾藤 尚子   理学部化学科 昭和五四年卒

 9月に 奈良少年刑務所の矯正展に行き、施設の見学もしてきました。刑務所内の見学は、初めての経験でしたが、「佐保会三重」に投稿させていただきました。詳細についてはそちらをご覧ください。

 

杉村 明子   理学部化学科 昭和五五年卒

テキスト ボックス: 水彩画(筍)  家被 S四三卒 渡辺澄子  今年、初孫が誕生しました。三十数年前と今では、育児の仕方が随分様変わりし、戸惑うことばかりです。今は育児雑誌やインターネットで、何でもすぐに調べられる便利な時代ですが、私の昭和の知恵の出番に備えて、温かく見守って行きたいと思います。私のおばあちゃん業の扉と同じくして、娘の次の世代の扉が開いたと感じる年でした。

 

杉野 仁美   家政学部食物学科 昭和五六年卒

 家庭科の高校教諭として十年目の頃、当時は「学科改編」と「特色化」が合言葉のように耳に入ってきていました。勤務校でも、学科名を家政科から生活文化科に改め、コース制にして特色付けを模索していました。その中で、「染色浴衣」に取り組むことになり、背中を押されながら無理やりこじ開けた染色の扉が、今ではとても感慨深いものになりました。のれん等、小物の染色はしていたものの、13mもの白生地をどうすれば均一に美しく染められるのか、本当に不安でいっぱいのまま扉をくぐりました。今では生徒作品の目玉になり、科目としても定着しました。あの時の扉の重かったこと。背中を押してくださった手の力強かったこと。忘れられません。

  

黒田 由美子   理学部数学科 昭和六二年卒

 佐保会の扉を開けたのは、ちょうど1年前、地区委員をやらせていただいたのがきっかけでした。  少し敷居が高いと思っていましたが、お元気な先輩方のお話を伺うことができ、扉を開けてよかったと思っています。お若い方もぜひ。