「公開講演会」         平成二十七年五月二十四日 ・アスト津にて 

 源氏物語と能楽

   能「半蔀」「玉葛(玉鬘)」、「葵上」「野宮」と源氏物語の中の女性像について~

文国・昭和三十一年卒  小 坂 絢 子 

 

 去る五月、右の標題でお話をさせていただきましたが、その節は私の思い違いで予定時間を三十分オーバーし、お話も冗長なものになってしまいました。お詫び申し上げます。

この稿はもう少しまとまったものにしたいと思います。

 

 「半蔀」のシテは夕顔の君ですが、源氏物語では、この女性はまず帚木の巻で頭中将の告白の形で登場します。雨の夜、宮中に泊った青年貴族たちが女性経験を語り、女性論を展開するうちに、頭中将が自分の失敗を語ります。――親を失って頼りない境遇になっていた女を、まだ若い頃に知って時々通うようになり、女の子も生まれたが、女はたいそう内気でおとなしく、とだえがちな訪れを強く恨むこともないので、いとしく思いながら久しく訪れないでいたところ、突然行方をくらましてしまった。正妻の方から厭がらせがあったらしい。もっとはっきり気持を表して自分を頼ってくれたら、いつまでもせわをしたのに、想い甲斐のない頼りない人だった――。

  源氏はこの夜、先輩たちから出自も性格も異なる様々なタイプの女性の話を聞いて、高貴な身分以外の女性に興味を持ちます。源氏が夕顔の君に出会ったのは、乳母の病気見舞に出かけた時でした。乳母の家のすぐそばに、夕顔の花が垣にまつわり咲いている家があり、源氏がその花を手折らせようとしたのが縁で知り合います。粗末な家にふさわしくない身分ありげな女を、頭中将の話の人ではないかと源氏は推察し、夕顔の宿の女も相手を源氏と察しながら、互いに身元を明かさないまま契りを結びます。源氏はこの恋にのめりこみ、夕顔を或る広い荒れ屋敷に連れ出したところ、その夜夕顔は枕もとにすわる女の霊を見て驚いて気絶し、そのままはかなくなってしまいました。動転した源氏は後始末を乳母の子の惟光にまかせ、夕顔の侍女右近を自分の邸に引き取り、すべてを内密にすませます。夕顔の幼い女の子は乳母のもとに残されたのでした。


「半蔀」では、ワキの僧が花の供養をする所に、女が現れて夕顔の花を捧げます。名を問うと「五条あたり」と答えて花の陰に消え失せます。僧が五条あたりに来てみると、雑草の生い茂る寂しい里の粗末な家から、半蔀を押し上げて美しい女が現れて、源氏との思い出を語ります。「ほのぼの見えし花の夕顔、花の夕顔、花の夕顔」と地謡がくり返し、やがて夜明けと共に半蔀の内に消えます。

 能では、源氏物語の中の頼りなくはかなく死んだ女性の悲劇は語られません。おっとりとして美しく、夕顔の花の精かと紛う、夢幻的な女性像を表出しているのがこの能の特徴かと思います。

源氏物語にもどります。三歳で母を失った夕顔の子は、乳母につれられて乳母の夫の任地筑紫へ下ります。乳母夫婦はこの子を高貴な人の姫君として大切に養育し、都へ帰る日を期するのですが、乳母の夫が亡くなって、帰京のすべもなく、そのまま十七年が過ぎました。土地の者から寄せられる姫君の縁談を乳母は断り続けていましたが、ついに土地の豪族から結婚を強要され、乳母とその長男と共に姫(玉鬘)は早船に乗って筑紫を逃がれます。恐ろしく、辛い思いをして漸く帰京しますが暮らしのあてもなく、救いを求めて初瀬の観音様に詣でます。そこで夕顔の侍女だった右近と出遇い、玉鬘は源氏のもとに引き取られます。

 玉鬘は父親(頭中将。今は内大臣)に会いたいと思っていますが、源氏は時期を見てと言い、自分が父親がわりとなって玉鬘を世話します。田舎育ちとはいえ、教養も気品もある玉鬘は、源氏の気配りでいよいよ美しい大人の女性となり、多くの恋文が寄せられました。しかし、どの男性も父親がわりの源氏の気に入りません。逢いたい実父には逢わせてもらえず、男性から寄せられる熱情には、ふと心ひかれることはあっても、どう対処してよいかわかりません。さらに、源氏の態度も時として父親らしからぬ馴れ馴れしさを見せるので、玉鬘は当惑するばかりです。やがて源氏は玉鬘を実父に会わせ、成人の儀式を行い、尚侍(ないしのかみ。女官長)として宮仕えさせることを決めました。

 ところが、突然、玉鬘は侍女のはからいで髭黒の大将と結ばれます。これは玉鬘にとっても、源氏にとっても、思いもよらぬことでした。髭黒の大将は家柄も地位も高く、浮いた噂もないまじめな人ですが、すでに妻も子もある中年の男です。髭黒と呼ばれるその容貌も、玉鬘にとって好ましいものではありませんでした。まして、大将の妻が狂乱して実家に帰ったという噂を聞けば、うとましいことでしたが、もはやどうしようもないのです。尚侍として出仕しましたが、まもなく風邪をきっかけに髭黒の邸に下がり、やがて男の子を生み、髭黒の妻として、先妻の子の面倒もよく見て、賢く生きたのでした。

 

能「玉葛」(玉鬘)の前半は、寂しい秋の大和路を背景に、筑紫から逃がれた玉鬘が初瀬に詣でて右近に出会うまでを表しています。後半のテーマは、「妄執」に苦しむ玉鬘が悩みの果てに悟りを得て救われるというものです。しかし、その「妄執」の内容は具体的に表わされていません。ただ、異性に関する悩みであることはわかります。けれどもそれは、特定の人に対する恋心ゆえの悩みではなく、むしろ、多くの異性から思いを寄せられながら、誰にも心を開くことができず、運命に身をまかせるよりほかなかった女性の、晴れやらぬ思いではないかと思います。「我や恋ふらし面影に立つ」「拂へど拂へど」消えぬ苦しみは、古典の世界では、自分が恋い慕う故ではなく、自分に寄せる人の熱情が面影となって身に添い、消えてくれないのです。悩み苦しみの果てに玉鬘は自分の運命を前世からの定めと受け入れ、「世をも人をも恨まず」心の平安を得て、「長き夢路は覚めにけり」と終ります。数奇な運命に苦しむ高貴な身分の女性を表わす、上品で哀情に満ちた能です。

 

 

「葵上」と「野宮」のシテは、ともに六条御息所です。まず、源氏物語の中での葵の上と六条御息所について述べます。

 葵の上は、時の権力者左大臣の娘で、源氏が十二歳で元服した時に与えられた正妻でした。源氏は四歳上のこの人を大切には扱うものの、とりすました姿になじめず、愛情は薄いのでした。源氏はひそかに六条御息所のもとに通います。今は亡き前皇太子妃で六歳上の御息所に十代の源氏がどのようにして近づいたものか、物語には書かれていませんが、源氏が夕顔を知る以前からの秘め事でした。御息所は若い源氏の恋心を受け入れたものの、二人の仲に希望を持てず、別れることを考えています。けれども葵の上が身ごもって源氏の訪れが間遠になると、嫉妬に苦しみ、また、加茂の斎院の御禊の日に行列の見物に出かけた自分の車が、葵の上の車の供の者から邪魔扱いされ、隅へ押しやられて傷つけられ、さんざんな目に会って、屈辱感に堪えられぬ思いをします。葵の上は出産に際して六条御息所の生霊のために苦しみ、男の子を生んで亡くなります。


御息所は、葵の上の死が自分の生霊のせいだと聞いて、自分の心の底の怨念がわれ知らず身から脱け出て葵の上にとり憑いたことを知り、深く恥じます。斎宮に任じられた娘(前皇太子の子)に付き添って伊勢へ下ることをかねてから考えていた御息所は、いよいよその決意を固め、娘と共に嵯峨の野宮に移ります。野宮とは、斎宮となった皇女が斎戒のために一定期間籠る所です。伊勢下向が近づいた日、源氏は、引き留めようとはるばる野宮をたずねますが、御息所の決意は固く、源氏に直接会うことはせず、御簾の内と外の縁とで別れを惜しみます。後年、御息所は斎宮の任を終えた娘と共に帰京しますが、母としての姿勢を崩すことはありませんでした。

 

能「葵上」では、最初に照日の神子という巫女が登場し、次に舞台正面先に赤地の小袖が置かれます。それが病臥する葵上を表します。葵の上の病が篤く、医療も祈祷も験がないので、照日の神子によって怨霊が呼び寄せられます。泥眼の面をつけたシテが登場。泥眼とは、目に金泥を施した、恨みを含んだ凄みのある面です。シテは六条御息所の生霊であると名告り、かつて皇太子妃として華やかだった身の、昔に変る今を嘆き、恨み、怒り、葵の上に打ちかかろうとします。後半、加持にすぐれた行者が呼ばれて祈ると、シテは被衣をはねのけ、忽ち般若の面の恐ろしい鬼女の姿となって抵抗しますが、ついに調伏されてしまいます。ここでは、御息所の怨念がテーマですが、高貴な身分の女性であるだけに、抑圧された鬱屈、恨み、憤りが生霊となってほとばしるその姿が、見る者の胸に迫ります。

「野宮」のシテは六条御息所の亡霊です。前半では、晩秋の嵯峨野、野宮の旧跡を訪れた僧の前に、里の女の姿でシテが現れ、源氏との恋の思い出を語り、別れの日は長月七日、今日に当ると言います。

 

 後半、僧が回向するうちに、車の音が近づいて、御息所の亡霊が現れます。車争いの屈辱に興奮しますが、自分の思いが妄執であり、すべては前世の報いであると知っています。それでもなお、源氏との別れの日をなつかしみ、長月七日の今夜、野宮の跡に現れたのです。けれども彼女の理性の声は、ここが伊勢神宮につながる地であり、死んでなお生の世界に思いを残して生と死の世界を出入りする自分を、神はお許しになるまいと言い、また車に乗って去ります。「火宅の門をや出でぬらん、火宅の門」と終りますが、御息所は解脱したのでしょうか。妄執にとらわれて思い出の夜、思い出の地にやって来る心も、妄執を自ら断ち切ろうとする強い心も、どちらも御息所の心の真実です。

 「野宮」は、理性と感情の葛藤に苦しむ女性の、情念の悲劇を表わすすばらしい能だと思います。

 

写実的な源氏物語を典処として、能はそれぞれに異なる女性像を霊魂の表れの形で表現して、奥深い世界を感じさせてくれます。その詞章の美しさも、謡曲で味わっていただきたいと付け加えて、結びといたします。