「公開講演会」         平成二十六年六月二十二日 ・アスト津にて 

平家物語と能楽 ‐敦盛・経政・忠度など‐

 

文国・昭和三十一年卒 小坂絢子

 

去る六月、「平家物語と能楽」という題でお話をさせていただきました。その時の内容を一部省略し、あらためて整理して記したいと思います。

 

能楽に修羅物といわれる種類があり、その多くが平家物語から材を採っています。この世で戦った者は、死後修羅道に落ちて苦しみます。その武将が亡霊となって現れるのです。およそ定まった型があります。旅の僧または故人のゆかりの人(ワキ)と里人(前シテ。実は故人の亡霊)とで構成される前半と、亡霊(後シテ)がありし日の姿で現れる後半との二部形式で、これを複式能と言います。

 

平家物語の人物が、能楽でどのように取り上げられているか、敦盛、経政、忠度を中心に述べたいと思います。いずれも後世に知られた人物で、その名が能の曲名となり、シテとして登場します。

 

敦盛(清盛の弟経盛の子)は、平家物語ではその最期だけが語られています。一の谷の戦場から沖の船に向かおうとするところを、武功にはやる東国武士熊谷次郎直実に呼び留められ、引き返し、覚悟して討たれます。ここで物語は熊谷の心情をつぶさに語っています。立派な鎧姿を見て呼び留めたものの、取っ組んでみれば相手は自分の息子と同じ年頃の少年なので、‐息子がちょっとけがをしただけでも心配なのに、この人の首を取ったら親はどんなに歎くだろう、助けてあげよう‐と思うのですが、味方の軍勢が押し寄せて来るのを見て、とても助けられまい、同じことなら自分の手にかけて、供養してあげよう、と涙ながらに討ち取ります。敦盛が錦の袋に入れた笛を携えているのを見て、戦の前夜に平家の陣から聞こえて来た笛の音を思い出し、深い感慨を覚えます。このことが因となってやがて熊谷は出家したのです。敦盛が持っていた笛は、祖父忠盛が鳥羽上皇から賜わったもので、敦盛が笛の上手であったので譲り受けたものでした。

 

能「敦盛」では、出家して蓮生と名のる熊谷がワキとして登場します。一の谷に着いて、草を刈る男の笛の音に心ひかれ、会話するうちに、男は敦盛の霊を弔ってくれと言って消え失せます。熊谷が夜もすがら念仏して弔ううちに、敦盛の亡霊が現れます。亡霊は、平家一門の栄華から凋落、須磨の仮屋すまいの悲しみを述べ、戦の前夜の経盛一族の最後の管弦の遊びの様を表わして、舞を舞います。そうして熊谷に討たれるのですが、最後は、熊谷の念仏によって「同じはちすの」仲間として救われて消えるのです。栄華のうちに生まれ、笛を愛した敦盛の、はかない最期の痛わしさ、その運命を哀惜する作者の思いが伝わって来ます。それはそのまま、言葉はなくとも、熊谷の心情でもあります。

 

経政(敦盛の兄)は少年時代に仁和寺の法親王に仕え、琵琶の名手だったので、「青山」の銘をもつ皇室所有の琵琶の名器を貸与されていました。都落ちに際して、経政はこれを仁和寺に返しに行きます。その次第は平家物語の「経政都落」と「青山の沙汰」に語られています。その後の経政については、一の谷で戦死したとあるのみです。

 

能「経政」は、経政のゆかりの僧がワキで、形見の琵琶「青山」を供えて経政を供養する管弦講を催します。楽の音にひかれて経政の亡霊が灯火の光のうちに現れ、琵琶の名手として輝いていた頃のさまを表わし、やがて修羅の苦しみに触れて暗闇に消え失せます。経政の享年は三十代かとされますが、能の経政は、彼の華やかだった少年の日の思い出なので、面は「敦盛」と同じく「十六」という面を用います。

 

忠度(清盛の末弟、享年四十一)は、文武両道に秀でた人でした。とり分け和歌に思いが深く、都落ちの節、途中から引き返して和歌の師藤原俊成のもとに、自作の和歌を記した巻物を託して去ります。世が治まって後、勅撰和歌集を編纂することがあったら、自分の和歌によいものがあれば載せてもらいたいと願ったのです。一門の運命を自覚した彼は、これで思い残すことはないと、西海に向かいます。これが「忠度都落」です。「忠度最期」によれば、一の谷の戦で岡部六弥太と取っ組んで首を取ろうとするところを、六弥太の家来に右の腕を切り落されて、西に向かって念仏して討死にしました。箙(えびら・矢を入れて背負う道具)には、「行きくれて木の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」という一首が結びつけてありました。「武道にも歌道にもすぐれた人だったのに」と、その死を惜しまぬ者はなかったとあります。後に「千載和歌集」を撰した俊成は、忠度が朝敵の身となったことをはばかって、「ささなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」という一首を、詠み人知らずとして集に入れました。

 

能「忠度」は、俊成の身内で今は出家となった旅の僧がワキです。西国行脚の途中、須磨の山陰の一本の桜のもとで、これはある人の亡き跡のしるしの木であると、花を手向けようとするところに、里の老人が現れ、これは「行きくれて・・・・・」と詠んだ人が植えた木であると告げます。僧の旅寝のうちに忠度の亡霊が現れ、この世に思い残すことが多い中でも、自分の歌が千載集に入ったが詠み人知らずとされたことが、「妄執の第一なり」と恨みます。以下、平家物語に沿って展開されますが、「行き暮れて・・・」の歌と共にシテは花のかげに消え失せます。和歌に始まり、和歌に終る、武人であり歌人であった忠度を惜しむ能です。

 

敦盛も経政も忠度も、平安朝貴族の優雅な文化を身につけた人たちでした。平家の滅亡と共に、王朝貴族文化も衰退しました。美しいものを愛し、それが亡びてゆくのを惜しむ思いが、これらの能に表されていると思います。 

 

平家一門の中にも、勇猛な武将はいました。能登守教経(清盛の弟教盛の子)はその代表でしょう。この人は屋島の合戦でも名を残し、「能登殿最期」では、壇の浦でのすさまじい戦いぶりが語られています。教経の矢先にかかっては逃れられる者はなく、矢が尽きると大太刀、大長刀を左右の手に持って、手あたり次第に敵を倒し、知盛(清盛の子)が使者をよこして「そんなに人を殺して罪を作りなさるな。相手がよい敵でもあるまい」とたしなめたほどでした。教経は義経を探してこれと組もうとしますが逃げられてしまい、最後は源氏方の武者二人を両脇に抱えて、死出の道づれにして海に沈みます。まことに勇ましい武将ですが、この人は能には取り上げられていません。その猛々しさが、能の作者の美意識に適わないのでしょう。一方、強い武将をシテとする「兼平」という曲があります。平家物語の「木曽最期」で語られる今井四郎兼平は、木曽義仲の家来で義仲とは乳兄弟でした。義仲が同じ源氏の鎌倉勢から追われる身となった戦で、兼平は義仲を守って、主従二騎となるまで戦い、義仲の討死を知るや、「日本一の剛の者の自害する手本」と叫んで、壮烈な自死を遂げます。彼が最後まで戦ったのは、主君義仲に名誉ある死、すなわち自害をさせる為でした。そこには主従の情だけでなく、共に育ち共に生きて来た兄弟のような、相手を思う熱い心がありました。さればこそ兼平は能のシテとなり得たのです。

 

さて、かの知盛は、兄宗盛に代って一門の運命を見とどけ、「見るべきものは見つ」と、鎧を二領身につけて海底に沈みます。能では「船弁慶」の後シテで、嵐の海に亡霊となって現れ、流浪の義経の行く手を阻みます。平家の無念を代表する人物でしょう。

 

ここに述べたことは、能の世界のほんの一端にすぎず、さまざまな曲がありますが、その底流にあるものは、美しいもの、心打たれるものを重んじる気持ちだと思われます。それは時代を超えて私たちの心に響きます。外面的な美や一時的な面白さではない、奥深い世界がそこにあります。

 

能楽は、詞章(謡曲)と舞と囃子とで構成される楽劇ですが、舞と囃子については、私の言葉の及ぶところではありません。その詞章も、いちいち意味を問うと難しいのですが、これは散文ではなく、詩的なものなので、聞き留めた言葉のイメージを自分なりに感じ取ればよいのではないかと思います。日本文化の伝統を背負う奥深いことばのイメージ、七五調の心地よい韻律、曲を盛り上げる囃子の音、美しい舞。ぜひ演能の場に足を運んでください。

 

能楽師でも能の研究者でもない私が能を語るのはおこがましいのですが、能に親しんで来た素人のことばとして、能に関心を持つ手がかりとなれば幸いです。 

 

【編集委員から】

    この講演は、佐保会に求められている公益事業の一環として、三重県支部が毎年総会時の公開講演会以外の事業として、計画して開催したものです。支部長報告や事務局便りをご参考にしていただきたいのですが、一般の参加者が圧倒的に多くて、興味関心の高さがうかがわれました。

    今後も社会貢献としての求めに応じていける様に、良いアイデアがあれば支部長や地区委員にご連絡ください。