「 先輩を訪ねて」    リレーインタビュー記 その1

 

山村ふさ 先輩 (昭和十五年 理科 卒業)

 

『年齢はとっていくが、時代の流れにあったことをやっている自負はある。それを裏打ちする感性は、奈良女高師で培われたものである。』

 

               理生・昭和五十七卒 森下 理

 

  佐保会三重の集まりに参加させていただくたびに、先輩方の輝く生き方や軌跡、絶えることのない知的好奇心、謙虚な姿勢・・・に感銘を受けています。四捨五入すればもう還暦という年齢になった私も、佐保会三重の集まりでは、未熟な〝若手〟で、先輩方から大きな刺激を受けてばかりです。そのような感銘や刺激を会員の皆様と共有したいという思いで、インタビュー記事を掲載することを提案しました。

 第1回は、今年九十五歳になられた 山村ふさ姉。三重県の女性教職員界のレジェンドと私が勝手に呼ばせていただいている先生のご自宅を十月十九日に渡辺澄子支部長とお訪ねしました。

 教育者として求めてこられた民主教育の世界、先頭に立って闘われた女性の権利拡大(産前産後休暇、代替教員をたてるなど)、日中友好運動などの枚挙にいとまのない功績は、自伝の書ともいえる『カサビアンカ物語―山村ふさ九十年の軌跡』に詳しく著されていますので、お読みいただくことにして、ここでは、二時間弱のインタビューから山村ふさ姉が「今も忘れることができない」と力強く語られたことを抜き書きする形で紹介していきます。四十年の時を経て、理科(理学部)の後輩にあたる私が、同じように奈良女で一晩中ウニの発生を観察し、寮生活をし、ヘビの解剖をし、原書を辞書を片手に読む・・・・共通の体験が、時を超えて、重なる不思議な時間となりました。

 ・宇治山田高等女学校最高学年の2学期に、後に京都府知事の蜷川虎三の配偶者となる、担任の谷本多津先生の「ふささんは勉強も好きだし成績もよいので上級学級に行かせては?」をきっかけに、浜松高専に通う兄の後押しもあり山村ふさ姉の奈良女高師への道はスタートする。「山村の成績では無理」という他の教員の一言を起爆剤に、夜8時に就寝し、午前2時に起床し三か月間猛勉強。後にも先にもあんなに勉強したことはない。十二月の奈良での入試は二日間で、競争率は十三倍という難関。期日がきても通知が来ないため、伊勢市の宮川モスリンで働き始める。過酷な労働を強いられている宮川モスリンの糸姫の姿を見て、怒りに震えた。

・奈良女高師の講堂の「温故知新」の額が山村ふさ姉を迎え、寄宿舎の先輩が大歓迎してくれたことが、人生の大きな岐路であった。先生方もすばらしく、寄宿舎で学ぶことは大変多かった。鳥羽市で、一晩中バフンウニの発生過程を観察した臨海実習では、生命の不思議に感動した。「生命」にインスパイアされた夜であった。今なお、アイディアマンといわれ、手本のない新しいものを創り上げていく力、新しい発想が培われた学生時代。それを支えてくれたのは、勉強をしたいものは学校に行けという方針の父親であり、授業料が十五円から二十円の時代に、原書二十円は非常に高額であったにもかかわらず、十二人の子を育てながらもお金を工面して送ってくれた継母であり、家族であった。


 ・勤務二校目の愛知県女子師範学校・愛知県立第2高等女学校では、女学生を八田にある三菱発動機工場に引率。子どもたちがケガをしないようにまじめに通って守っていただけで、二階級昇給。戦争の理由や反戦については、何も意識もしていなかったが、ただ、心が落ちつかない、おかしい、と感じた。授業の終わりに、もっとよい世界になるようにとの思いから、「山のあなたの空遠く・・・」などを教えていた。

・宇治山田高等学校に勤務しながら、一九七〇年に、産休明けから就学時までの乳幼児を受けいれ、朝7時半から夕方6時までの長時間保育を行う保育園建設に着手。預かる子どもたちのお尻の赤さが、合成洗剤の使用をやめると消えることから、合成洗剤ボイコット運動を始める。その後、生協を作り、伊勢九条の会を立ち上げ・・・

 

 インタビューをさせていただいていた日曜日、インタビューに伺った私たちの他、外回りのお掃除の手伝いをされる方、季節の栗きんとんを手土産に来られたマッサージ担当の方、身の回りのことをお手伝いされる方・・と来客と話し声、笑い声ひっきりなしのカサビアンカ(*スペインの白い家)でした。腰骨を骨折されて、現在は伊勢市を出ることが禁じられておられる山村先生ですが、できることはご自分でなさりながら、必要な手助けを受けながら、自立した一人暮らしを続けておられます。にぎやかな一人暮らしの新しいライフスタイルも一つのお手本のように感じました。平成二六年度の佐保会三重の総会にもプレゼントとして寄贈していただいた先生お手製の手袋型(!)アクリルたわしは伊勢市内のいろんなところで使われていること、マッサージよりお話し中心になっていること、デイサービスセンターでもおしゃべりをしすぎてしまうこと、今なお、新しい考えがどんどん浮かんできて、その考えにみんながついてきてくれるなど、少しお茶目な輝く瞳でお話しされました。

年齢はとっていくが、時代の流れにあったことをやっている自負はある。それを裏打ちする感性は、奈良女高師で培われたものである。この言葉でインタビューは締めくくられました。

 

アカデミックなキャリアの原点ともいえる奈良女高師時代に読み解いた二十円の原書がまだ、お手元にあるということでしたので、山のようにある貴重な蔵書を拝見させていただきましたが、私では見つけることができませんでした。しかし、訪問日の翌日、「原書を見つけたので取りに来てください」とわざわざ私の勤務先までお電話をいただき、こういった相手への思いやりや迅速な有言・不言実行が先生の全ての業績を裏打ちしているのであろうと痛感いたしました。

 今回のインタビューを通して、私が知りたいこと、語り継ぎたいことは、先輩方の業績の軌跡をたどることではなく、日々の暮らしや社会にどう向き合っておられるか、生き方の姿勢のようなものであるのではないか、と気づくことができました。

形式はさまざま考えられますが、先輩方のお話しを佐保会三重が語り継いでいただけると、うれしい限りです。ぜひ、ご自身の、またお近くの会員の方の、かけがえのないお話しをお聞かせください。

 

〈追記〉

 十一月二日、山村先生のお宅を吉田啓子さん(昭和五七年理学部生物学科卒)と共に再訪し、原書を拝見し、満鮮修学旅行のことをお聞かせいただきました。山村先生のご本は『Strasburger’s textbook of Botany (植物学の教科書)の英語版第6刷で1930年にロンドンで発行されたものでした。当時最新の植物学の教科書であったと思われます。本の題名は、十九世紀の最も有名な植物学者・細胞学者の一人であるシュトラスブルガーの名前を由来としています。

以下 ウィキペディアより引用・・・・シュトラスブルガーは一八九四年に初版が刊行された Lehrbuch der Botanik für Hochschulen(『植物学の教科書』)の作者である。彼は裸子植物(針葉樹など)と被子植物(顕花植物)における胚嚢にはじめて正確な説明を与えた人物であるとともに、被子植物の重複受精をはじめて立証した人物でもある。彼は植物細胞学における現代の法則の一つを提示した。「新しい細胞核は、他の核の分裂によってのみ生じる」というものである。「細胞質」と「核質」という用語を案出したのもシュトラースブルガーである。